「理生さんを偲ぶ会」代表

宗方駿氏インタビュー

 

はじまり

 

笠井:宗方さんが岸田理生さんと出会う事になったきっかけを教えてください。

 

宗方:早稲田大学に入学して2年間、演劇研究会というところで活動していました。その時に演出をしていた樋口と いう人間と共に2本ほど芝居をしました。でも、そのグループが空中分解してしまい、私は文学座へ行き、樋口は天井桟敷に入りました。僕が文学座の研修生生 活を送っていた頃も樋口と連絡をとっていました。ある時、「面白いのが居るから家に遊びにおいで。」と言われて樋口のアパートに行ったら、そこに居たのが 岸田理生だった。

 

笠井:樋口さんの自宅で紹介されたんですね。

 

宗方:そうです。以前から天井桟敷の『地下演劇』という雑誌で「岸田理生」という名前はよく掲載されていましたし、名前は知っていたんですけど。それで、今 度一緒にやることになるかもしれないからよろしくね、みたいな話をしました。樋口は天井桟敷に2年間在籍した後、理生さんや劇研にアプローチをかけて『夢 に見られた男』という作品を上演しました。アトリエでワークショップをした後、『堕ちる男』という芝居を学校の中講堂で公演して、シンポジウムには鈴木忠 志さんを呼んだりしました。劇研のなかでは、ちょっと意外性の高いやり方でしたね。その後、哥以劇場を樋口や理生さんと共に8人で旗揚げしました。

 

笠井:なるほど。

 

宗 方:旗揚げは『洪水伝説』という芝居で、六本木にある自由劇場のアトリエで上演しました。実はその直前に理生さんは処女作の『眠る男』を書いています。そ れは元々、樋口が発想して書いたものを理生さんが全面的に手直しをして書いたものです。その戯曲を、その頃の『新劇』の編集長が掲載してくれたんです。

 

笠井:そうなんですか。

 

宗 方:処女作と言っても上演もされていないのに『新劇』に載るというのは、やはりその時点ですでに認められていたんですね。でも自分の戯曲としては『眠る 男』が初めてだった。しかし『眠る男』は理生さんの発想じゃない。その面白いエピソードとして、樋口が『眠る男』の冒頭に「眠りとは死のようなものだ。」 という一文を書いた。そうすると理生さんはそれをカットして「眠りは死だ。」と書くわけです。「眠りは死だ。」と言い切ることが作家なんだと思う。

 

笠井:と言いますと。

 

宗 方:「眠りは死だ。」と言われると、眠りと死が確実に響き会うよね? ある意味で詩人が書く言葉でしょう? 「眠りとは死のようなものである。」というの は評論家が書く言葉。つまり劇作家の書く文章とはそういうことだと思った。理生さんは、それを寺山さんから習ったのか僕は知らないけど、この時点でもうす でに劇作家だったんだよ。

 

寺山修司

 

笠井:岸田理生さんは、当時お幾つだったんですか?

 

宗方:30歳くらい。つまり、28歳くらいで寺山さんと出会った。それまでは長野に居たんですよ。かなり遅くなってから寺山さんの片腕として活動しはじめた。

 

笠井:28歳になって、なぜ天井桟敷に行こうと思ったんでしょうか?

 

宗方:それは分からない。寺山さんとの出会いについて、理生さんは本当のことを喋らないから。寺山さんとはどういう出会いだったんですか? と聞くと。「橋があってね。橋の向こうから寺山さんが歩いてきたの。」って(笑)。

 

笠井:(笑)。

 

宗方:勝手にしろってね。でも別の言い方をすると、長野で寺山さんの講演会が開かれて、それを聞きに来ていた聴衆の中にすごく気の利いたことを言う女の子がいた。

 

笠井:なるほど。

 

宗 方:そこから始まったんだと思いますよ。「私は連れて行かれた。」と言っていましたから。それはそうかもしれないよね。理生さんが田舎にいた頃の本棚が実 家にそのまま残っているんだけど、それを見ると、その当時から既にマニアックというか(笑)。趣味もそうだし読んでいる分量も凄い。「それだけ色んな本を 読んでいるんなら、もったいないよ、なんか書きなよ。」みたいなところから、恐らく寺山さんとは始まってるんだと思います。

 

笠井:では、岸田理生さんが天井桟敷以外のところに活動の場を求めて哥以劇場を旗揚げすることは、寺山さんから見ても必然だったということでしょうか?

 

宗方:そうだね。寺山さんからしても、天井桟敷で書く限りはやっぱり寺山さんの作品だし、どっちみち独り占めできないだろうと思っていたと思います。だか ら、寺山さんは理生さんを引きとめはしなかった。そのあたりは寺山さんの偉いところで、天井桟敷からは優秀なスタッフがいっぱい育っているんですね。それ は、寺山さんが天井桟敷に居ながらにして色んな活動を認めていたから。だから、そういう風に育っていった。完全に抱え込んじゃうと、なかなかそういう風は 育たないと思うんですよ。それは理生さんも同じで、できるものならやってごらんっていう感じで見てたんだと思います。だけど結局、処女作の『眠る男』や、 『夢に見られた男』、『堕ちる男』の男シリーズも、劇団を旗揚げ後二作目の『解体新書』までは、理生さんが本当に書きたいものを書いたというよりも、樋口 との話し合いで一緒に作っていた。実は、『解体新書』に出演する女の子が怪我をして出られなくなったので、かわいそうだから、次は女の子を主演にしようっ てことになって書いたのが『捨子物語』だったんです。これが当たった。

 

作家・岸田理生の原点

 

宗方:『捨子物語』が当たったと言ったのは、理生さんにとって自分の本当のことが書けたという作品だったと思うから。

 

笠井:では、そこが原点なんですね。

 

宗方:そうだと思います。

 

笠 井:私は、岸田理生さんの作品は岸田戯曲賞を受賞した『糸地獄』から読んだんですが、『捨子物語』と『糸地獄』はかなりリンクするところがありますよね?  これは僕の勝手な考えかもしれませんが、『捨子物語』から始まったものが綺麗にまとまって完結されたのが『糸地獄』だと。

 

宗方:そうです。それは正しい。結局そのあと『捨子物語』、『臘月記』、『夢の浮橋』と女シリーズが続いたんですね。そのシリーズでは、女の持つ情念とか、後々フェミニズムと言われるんだけど、女が自立することが描かれています。

笠井:岸田理生さんは、フェミニストではなかったんですか?

 

宗方:理生さんは当時もその後もフェミニズムって言われると、「私はフェミニストじゃない。」と言っていましたね。かなり女について書いていましたから、逆 に否定したかった部分があったのかな? これは寺山さんの言葉なのか、理生さんの言葉なのか判断がつかないんだけど、よく台詞のなかに「お前は誰だ?」 「 私はまだ誰でもない。これからなるもの。」 というのがあります。つまり、「人はなにかであるものじゃなくて、なにかになるものだ。」という思想ですよね? 例えば、作家である、ということは作家に なる。彼女も岸田理生である前に岸田理生になるということがあった。それはつまり、人間が立つという風に考えていたんじゃないかと。そして、たまたま理生 さんは女だから女が立つ芝居だったんだと思います。これは私の読みです。だから、非常に女のドロドロした情念を描いていながらも、最後にはどんな立ち方に しても人間が立つという形で終わるわけで。それが『糸地獄』には結集されている気がしますね。

 

笠井:『捨子物語』でいうと、大正天皇の肖像画が出てきます。私の読んだ印象ですが、あれは天皇もひとつの家族の一員、家系といえばいいんですかね? 天皇 制という家系の中に国民がいる。そこに反発する気持ちがある、という内容に読めました。岸田理生さんにとって家族、家というテーマは重要だったんですか?

 

宗方:そうだと思います。彼女が非常にこだわった、家との関係は重要なもので、古い封建的な家があったことだけは事実。

 

笠井:本人の家系がそうだったということですか?

 

宗方:そうそう。一番象徴的なのは、ひな祭りのひな壇の話。『田園に死す』という寺山さんの映画で最後にひな壇が川を流れてくるシーンがありますが、そのひ な檀は理生さんの実家のでね(笑)。なぜそれを持っていたのかと言うと、本家の娘だからと。でも分家で女の子が生まれた年は、そのひな檀は分家にいくらし いんだけど、その年は必ずその分家に不幸が起こる。女の子が生まれない年は本家にあって、そのひな檀が理生さんは怖いと言っていた。そういう因習、本家・ 分家ということを含めた家系図というのが厳然としてあったんだと思う。それを探っていたのではないでしょうか。

 

笠井:そのへんは、そのまま『糸地獄』のテーマに結びつくところですね。

宗方:そうですね。ただ、父殺しと母殺しというのに関しては、寺山さんの『家出のすすめ』じゃないけれど、彼女の本心というよりもフィクションとしての親子関係を提示してたと思いますよ。

 

多言語の戯曲

 

笠井:宗方さんが印象に残っている作品を教えて下さい。

 

宗方:『ソラ ハヌル ランギット』。これが岸田理生カンパニーとしては最後の芝居だった。その作品はひとつの集大成だったと思う。2001年ですね。

 

笠井:そうすると『鳥よ鳥よ青い鳥よ』の後ですね。

 

宗 方:そうです。『鳥よ鳥よ青い鳥よ』や、『リア』でシンガポールの演出家オン・ケンセンと出会い、海外とのコラボレーションや多言語を使うことを含めて、 後期の理生さんの作品はグローバルな動きをしていきました。『ソラ ハヌル ランギット』では、韓国語・マレー語・英語・北京語・日本語と日本手話の、五カ国の五言語によって芝居が成り立っていました。日本でこういった芝居をやれ る人はいないですよ。しかも、五カ国語でやると言葉が分からないから、観念的になったりビジュアル的になったりすることが理生さんは嫌で、確実にそれが分 かるように作った。言葉をリフレインさせるんです。日本語で言ったら、韓国語で言うという風に。そうすると、韓国語も北京語も分からない人も何度か聞いて いると、「あー、同じ事を言っているんだろう。」と。観客がすべて分かるように五言語を使う作家ってたぶんいないんじゃないかな?そういった意味で、後期 の作品の中でも結実したものがあったと思います。

 

笠井:この時の演出はご自身でされたんですね。僕が、唯一体験した岸田理生体験は『デスデモーナ』を福岡で見たんですね。その時はもちろん、外国語ばかりで、言葉は解らないというオン・ケンセンの演出だったんですけど、ご自身でされたら、解るように演出されたでしょうね。

 

宗方:そうでしょう。オン・ケンセンとの作業は、作家あるいは台詞担当の書き手として参加するというやり方をしてたと思うんで、逆に自分で演出する時は違うやり方をしたいと思っていたんだと思います。

 

笠井:そうすると、岸田理生さんにとって言葉という最大の武器。

 

宗方:そうでしょうね。

 

笠井:ここまで考える人はなかなかいない。

 

宗方:結局、いざ自分の書いた作品が海外に紹介されるという状況になった時から、理生さんはパニックになったんですね。それまで寺山さんとの対抗で、非常に 和的な女の世界で名前を売ってきた。日本語の古典的な美しさや響きを大事にしながら、歌や詩を作ってきた。そうすると、それを海外に紹介すると思った瞬間 に、全て通用しないような気がしちゃった。簡単に言うと、「おしんこ」を「ピクルス」と訳さないでとかね(笑)。でも、そうしか訳せないからしょうがな い。そこから、海外でやるんだったら海外でやるための作品を作るべきだ、それなら私は納得できると。つまり『糸地獄』が単純にそのまま訳されて、向こうで 好評であろうとなんであろうと、それは私の書いたものとは違うっていう考えがどうしてもあった。後期の多言語の脚本は、前期の作品に比べると、ニュアンス を切り取られている英語の翻訳劇に近い。つまり、全世界共通にある「花」、「海」そういった言葉だけで構成していくようになった。

 

笠井:なるほど。だから初期の作品に比べると、もの足りない言葉として感じるんですね。

 

宗方:でも結局、それをしないと世界には通じないんだ、という思い。伝わらないんだということを感じちゃったところから岸田理生の文章は変わった。

 

 

偲ぶ会

 

笠井:では最後に偲ぶ会についてお願いします。

 

宗方:去年、今年と連続企画をしました。当初はこんな企画をしてもなかなかやってくれる人いないじゃないかなぁって思ってましたが、いざやってみると、出演 者も盛り上がってくれて喜んでもらえたし、お客さんも去年より今年のほうが増えていました。当然、若いお客さんや劇団の人間にも知れるし、やって良かった なと思っています。逆に言うと、理生さんの威力ってすごいと改めて思いました。来年、もう一度やると宣言してしまったんでやります(笑)。来年は懸案だっ た『糸地獄』を公演にして、それを私自身の追悼も込めてやりつもりです。

 

笠井:『糸地獄』の演出は?

 

宗方:天井桟敷からの仲間だった高田恵篤という俳優がします。そういう意味では今まで4回やってるんですけど、それとはぜんぜん違う作品が仕上がると思いま す。とりあえず3年目ということで来年までは追悼という意味で。その次の年からは、追悼というのは取っ払って岸田理生という人物が書いた作品をやる、とい う風に考えようかなと。再来年もアゴラ劇場で企画が立ち上がっています。今後に繋がる形でやっていけたらいいなという風に思っています。

 

2005年12月 横浜にて

 

宗方駿(むなかた・しゅん)氏 プロフィール

早大劇研より文学座を経て、本格的な演劇活動を開始。

劇作家岸田理生氏と出会い、「哥以劇場」から「岸田事務所+楽天団」まで、役者ならびに制作として常に行動を共にする。

1993年からは「岸田理生カンパニー」のメンバーとして活躍するかたわら、1999年に「プロジェクト・ムー」を旗揚げ。

「世田谷表現クラブ」の専属講師も務める。

また岸田氏亡き後、その作品の管理普及の為、「理生さんを偲ぶ会」を設立。代表を務める。